熱き心!ラグビーで得た感動を伝たい
<2004年9月11日>
2004/10/20

 平成16年度第1回不惑倶楽部講演会を開催致しました。事前に協会のHPに案内が出たこともあり、土曜日の午前中という時間帯にも関わらず会員46名、外部からの聴講者8名の計54名という多数の方にご出席頂きました。

日時   :平成16年9月11日(土) 10:00
場所   :東京体育館 第1会議室

第一部
◆大元よしき氏
 「ファイナルマッチ」

講師紹介
 1962年東京出身。保善高校でラグビーを始める。東洋大学を経て精密機械メーカー、外資系IT企業に勤務。4年間に3回目の合併を経験、2003年最後の合併を契機に退職し、作家を目指す。

第二部
◆林敏之氏
 「人間には感動が大切」

講師紹介
 1960年徳島出身。徳島県立城北高校で頭角を現す。同志社大3年で日本代表入りし神戸製鋼の7連覇に貢献。日本代表キャップ38。90年には留学先のオックスフォード大学でケンブリッジ大学との定期戦(バーシティマッチ)に出場し東洋人初のブルーの称号を得る。96年に現役を引退、現在は神鋼ヒューマンクリエイトに勤務。
 また、現在自身の体験に基づき青少年にラグビーを通じて感動することの大切さを教える場として「ラグビー寺子屋」を主宰。

当倶楽部副理事長 杉山の挨拶

「ファイナルマッチ」 講師 大元よしき氏
 ファイナルマッチ
大元よしき
 おはようございます。私講演の機会を得て大変嬉しく思っています。若干自己紹介をさせて頂きながら、ファイナルマッチをお話させて頂きます。

1.中学時代いい子でなかった
 実は僕は中学時代あまりいい子でなかったですね。とても先生に嫌われていました。幼稚園のころから中学2年生まで、ずっと僕と先生の間に信頼関係が出来たことはなかった。僕は生徒と先生の間には、信頼関係はありえないと思っていたのです。中学校時代は「お前は最低の男だ」といわれたこともあります。中学3年の時に、いま思うと若い女性なんですね。29歳の女性の先生が担任になりました。卒業して数年後に聞きましたら、他の先生が僕のことを誰もとってくれなかった。「一番若いあなたが取りなさい」っていわれて、僕のことをクラスに引き取ってくれたそうです。その先生が、僕のことを保善高校のラグビー部に突っ込んだんです。そこから僕のラグビー人生が始まった。本当に人生に大きな転機ですね。いまはかなり低迷していますが、あの当時3年に一度は全国大会に出場していましたし、練習も厳しかった。全国でも指折りだったようです。そんなチームに所属して何ヶ月続くのだろうかと思いました。先生から聞いたとき、恐怖心を持ちました。最後の進路を決める3者面談では、僕は部屋に入れてもらえず母親と先生だけで、保善高校のラグビー部と決めてしまいました。保善高校の新井先生は先代の監督です。あのチームに入れば、真っ直ぐになる。あの先生に預ければ、真っ直ぐに伸ばしてくれる。そんな思いで先生も僕に薦めたと思います。そのときには僕もいやとはいえなかったですね。母親と先生で決めてしまったものですから。「じゃ、やります。」
2.セレクションでの仰天の一日
 僕はあまり成績の良いほうでなかったものですから、推薦なんですね。その年保善は全国大会に出られなかったので、12月の終わりにセレクションがありました。僕は先生から、「お前が見たこともないような、男達がくるはずだから、そういう連中から刺激を貰って来い。」そんな感じで送り出されました。僕が途中で逃げ出すんじゃないかと、先生が保善高校の校門前まで送ってくれました。セレクションに来ていたメンバーは、やはりすごい男達でした。あそこにいる神戸製鋼の早坂も同級生で、彼も日本選抜に選ばれているのですが。そういうクラスの男達がごろごろいたんです。ものすごいところだなと思いました。その日のセレクションはビリっけつだったですね。でも帰りに新井先生が「3年間、頑張れ」とやさしく言ってくれたのです。どんなに怖い先生かと想像していたら、すごくやさしいんですね。それからセレクションが終わって、駅までいっしょに帰った男がいました。そいつは中学生とは思えないほど体が出来ていました。「なにをやっているんだ。」「俺は柔道をやっている。」そんな会話をしました。僕が中学時代に付き合っていた友達とは、あきらかに質が違いました。そいつは全く飾っていない、内面にある真の強さを感じました。帰りには「一緒にラグビーやりたいな。また入試で会おう」そんな爽やかな言葉を掛けてくれました。そんな真っ直ぐで熱い友達もいなかった僕には、仰天の1日でした。先生の「3年間頑張れ。」、セレクション仲間の「また入試で会おう」が、嬉しかった。その夜、担任の先生と電話で話をしました「いい先生だろう。」「どうしてもあそこに行きたい。みんなと一緒に日本一になりたい。」「落ちたら大変、いまから勉強しろ。」そんな会話でした。
3.厳しい練習で21日間家出
 そんな経緯で保善高校に入りました。入学した日にラグビー部の入部説明会がありました。その日は入部希望者で溢れていました。100人ほどでしょうか。ところが、新井先生が「厳しいよ」とやさしく説明すると翌日の練習には60人に減っていました。説明を聞いただけで、びびって帰ってしまう人がいるのかとびっくりしました。60人は僕等の同期だったのですが、夏前になると30人を切りました。ばたばたといなくなる。毎日毎日、今日も怪我をしなかった。無事に今日も終えたと安堵しながら家に帰るのです。あの頃、毎日朝起きると恐怖で毛穴が開きました。新大久保駅に学校があるのですが、厳しい練習を思うと足が動きません「ああこのまま帰りたい。」校門に入ると本当に毛穴が開いてしまうんです。そんな繰り返しでした。やっと夏合宿まで行きました。保善の夏合宿は草津です。草津で保善は強くなるという位草津合宿は厳しかったです。例えば、ランパスにもタイムがありました。22m〜ゴールラインまでのランパスは11秒台などです。一次合宿が終わるとバタバタとやめていく。次の2次合宿があるのでどんどんやめる。あいつがやめた、こいつがやめた。どんどん自信がなくなってきます。僕も毎日葛藤しながら練習をこなしました。今日も練習に出られた。今日も終わった。その繰り返しでした。やっと2次合宿が終わって帰ってきたら、実は僕も精神的に擦り切れていました。それが8月の終わりで、9月から2学期が始まる。いよいよ練習が怖くなりました。先生に「補習して下さい。」練習に出たくないから、勉強するとういう意味ですが、補習してもらってもちっとも勉強しないんです。とにかく練習に出たくない。それだけでした。推薦で入ったものですから部をやめるわけにいかず、追い詰められて家出しました。結果的に21日間も家出しました。練習にも行きたくない、家にも帰れない。だから本当に逃げ場がなくなってしまった。それで21日間も家出したのですが、始めのうちはああ、逃げられた、ほっとしたと思って寝るわけです。でも2日目、3日目になると自分が負けた、負けた、と考えてどんどんおかしくなる。家にも帰らず逃出しているわけですからね。そんな情けない男になった。そんな性格の男が一番大嫌いなのに自分がそうなってしまった。でも人間、心の中で作用と反作用があって、畜生、畜生と反対側から気持ちが自然と湧いてくる。それで反作用が逆転して「帰ろう」という気持ちになって家に帰りました。21日間、風呂に入っていないからものすごい臭いだったと思います。家に着いたのですが、今度は家に入れない。玄関の前でうろうろしていたら、そこからは見えるはずのない母親が「帰ってきたの。ごはんが出来ているから入りなさい。」と言う。僕のことは見えなかったはず、さすが母親だなと思いました。「なんでわかったの。」「わかるさ。待っていたんだもの。」で家に入って、泣いてごはんを食べました。「帰って来られてよかったね。どうなっているかと思っていた」「お前、これからどうするんだ。」「ラグビー部に戻れないので学校をやめる。」「学校はやめるな。」そこで初めて父にバーンとなぐられました。「負けたのはお前のせいだ。ラグビーやめても学校には行け。まだまだチャンスはある。」その日の会話は忘れられません。
4.さげすみの目とねたみ
 母親に連れられて学校に行き退部しました。これですっきりすると思ったが、今度は仲間の蔑みの視線が刺さってきました。それでも蔑みの目と3ヶ月間闘いました。そこでも作用と反作用があった。あの苦しい練習を思い出しても、負けてはいけない、戻ろうと思いました。毎日4階の柱の陰からグランドを見ていました。本当はラグビーがしたい、負け犬になるのは嫌です。担任の先生がグランドを見ている僕に、「これから行こう。」と声を掛けてくれました。その瞬間、急に恐怖心が沸いてきて、手を振り払って逃げて帰ったのです。でも家に帰って、これがきっかけだと思いました。翌日、スパイク、ジャージを一式そろえて登校し担任に「戻ります。」と言いました。担任の先生は新井先生のところにいっしょに行ってくれました「一度目は辛さを知っているから立派だぞ。だけど2度やったら人生の敗者になる。最後までやり抜け。」と新井先生の言葉でした。
 3ヶ月前とは天と地ほどの差があった。体力もスキルも格段に違っていました。はじめは、体力がなくてついていけなかった。1週間位から徐々に後ろを追っかけられるようになった。僕はただついて行くだけでした。
 2年生にあがるとき、バックスからフッカーにいきなりポジション変更がありました。紅白戦で前半、センターで出ていると「ちょっと来い、フッカーをやれ。」そうすると、初めてやるので1年生と同じです。辛かった。仲間がものすごく励まし、大切にしてくれました。やっと仲間に入れた、生き残った。60人から20人に残れた。しかし、2年になるとポジション争いが激しくなりました。3年が7人しかいなかったので、僕らの同級生が主力になっていました。それでも2年の時全国大会に出場しました。東京都決勝は秩父宮でした。全校を挙げて応援に来ます。同級生がものすごく脚光を浴びる時です。僕は詰襟を着てスタンドから見ていました。一緒にやっていた仲間をとても羨ましく、妬ましく思いました。その日、下馬評では、早大学院有利と言われていました。負けると言われたことが起爆剤となり、結局勝ったのです。本当は喜ぶべきもの、しかし嬉しいのに嬉しくない。同級生が僕のポジションの2番を着て活躍していたからです。ものすごく妬ましいと思いました。勝った瞬間涙が出ました。ちっぽけな自分が悲しかったのです。おれって小さいなと思いました。
5.剣を通して人格を高める
 3年になって同じポジションで、東京都代表から日本高校代表候補に選ばれた男がいました。実は一番仲が良かったのです。嬉しいが半分は妬ましい。1本目はどんどん強くなり、2本目は1本目の台になる。お前の存在の価値はなにか、自問自答する毎日でした。自分は要らないんじゃないか。1本目の選手は名前を呼ばれ、2本目は台でしかない。人格を認めてくれる先生であったが。そんなことが辛くてよく悩みました。そんなときです、同級生が吉川英治の宮本武蔵を読めと薦めてくれました。剣を通して人格を高める。身の栄達のためではない。いろいろな教えを物語から学びました。僕たちはラグビーの労働者ではない。「ラグビーが強ければいいというものでもない。高校生だから勉強しろ。ラグビーの労働者になり下がるな。」監督である新井先生が、よくそう言っておられた。そうかラグビーを通じて人格を磨き高めるのか。名誉とか名声とかだけではない。自分のためにやっている。ある意味であきらめもあったが納得したのです。
6.最後まで頑張ったやつに宝物
 夏休み頃から、ある意味では素直になってラグビーの練習が出来るようになりました。それまでいろいろなところを怪我しました。特に高校1年の6月に捻挫して以来、だましだましやっていたのが悪化して、足首が腫れあがってしまいました。ひどくなり秋にはリザーブにも入れなくなってしまったのです。
 その年、チームは東京代表になるのがあたり前と思われていました。チームは調子よく全国大会に進みました。その大会直前の調整合宿は、トヨタ自動車でした。僕ら二本目には公式戦がありません。一本目との紅白戦が僕等の試合でした。そして合宿最終日の練習試合が、2本目の最後の試合(ファイナルマッチ)だったのです。合宿中、あと何日あと何日と数える。合宿が終わると、あとは合わせる程度の練習しかありません。プレーヤーとしてはこの合宿が最後です。その最後の試合で一本トライを取る、これが僕たち2本目の目標だったのです。しかし最終日ともなれば、前日までの勢いと違ってトライが取れません。彼らはその時点で完成しているチームなのです。東京第一代表なのです。僕たちから見れば、戦法戦術すべてが完璧なんですね。ましてや調整合宿の試合は15分ハーフと短い。本当に隙がありませんでした。僕たちは「同じ保善だろう。」「同じ時に始めてチャンスも平等にあっただろう。」「最後に一本だけ取ろう。」と必死でした。たかが、一本というが、なすすべがない状態でした。あっという間にやられてしまう。その頃、僕はもう走れなかった。しかしマネージャーが毎朝早く起きて、テーピングしてくれていました。「辛いのはわかる。おれが毎朝起きて、テープを巻いてやる。とにかく頑張れ。」「最後まで頑張ったやつには、大事な宝物が得られるって先生から聞いたことがあるだろう。一緒にその宝物を得よう。」「よし行こうか。」そんな励ましを仲間からもらっていました。
 モールサイドからタックルに行った時、吹っ飛ばされて右足に激痛が走りました。僕は立てなかった。目だけがボールを追っていました。その時、スタンドオフでマネージャーの男は「寝ている時じゃない、立て、立て!」と叫んでいるんです。僕は立ちました。
 レフリーは時計を見ました、あとワンプレーであることがわかりました。「この1本に集中しよう」声を掛け合いました。しかしボールはデッドになり、ホイッスルが吹かれる寸前、僕たちは「先生、あとワンプレー下さい」とラックから起き上がりながら言いました。そのときレフリーをしていた先生は「よし」と言って、本当は一本目ボールを二本目ボールにしてくれたのです。しかし、その次も同様でした。2〜3回もらったところで、一本目も二本目の思いに気が付いてきました。最後に熱い戦いになりました。何次攻撃になったのか、最後にはつないでつないで、きれいにトライを取りました。まるで僕たちは全国大会に優勝した位喜びました。2本目の3年生が、両手を高く突き上げ1トライを喜び合いました。たかが1トライです。でも僕達には大事な1トライだったのです。練習後、一本目は早々に上がりましたが、二本目はいつまでもグラウンドに残って名残惜しみました。
 「頑張れた。」中学時代最低だといわれた男が、頑張れたんです。実績や名声なんか無くても、ラグビーは素晴らしいものを僕にくれた。僕は17年間ラグビーとともに歩みました。
途中で投げず、やり遂げれば「大事な宝物が得られる」僕はそう伝えていきたい。
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「人間には感動が大切」 講師 林敏之氏
  たかがラグビーであるが、13歳から36歳まで23年間プレーをして来た。引退した時、完全燃焼したという思いがあり、もうあまり走りたいと思わなかった。今は年2〜3試合を楽しみにやるくらい。惑惑倶楽部に入れといわれるが、遠慮してます。しかし私にとってラグビーは、されどラグビー、大きなものだ。私は徳島で生まれ、中高時代は遊びのラグビーをやった。同志社大学及び神戸製鋼では日本一になるラグビーをやった。

1.サッカー少年喧嘩別れ
 中学時代はサッカー少年だった。当時の私は人としゃべることが苦手で、友達をうまく作れないという劣等感があった。当時は胸が痛く、眠れない夜もあった。サッカーは1年からレギュラーになったが、いろんなことがあって喧嘩して部をやめた。実は徳島県下で1校だけ、私がいっていた中学校にラグビー部があった。サッカー部をやめた私をラグビー部の連中が誘そってくれて、ラグビーを始めた。
2.外人に通用したのはお前だけ
 ラグビーとの本格的な出逢いは高校3年の時だった。徳島はそんなにレベルは高くないし、我々は弱小チームだった。進学校で3年になるとみんな部活をやめる、そんな中で楽しいラグビーをやっていた。そんな私が、高校3年の夏休みに行われた日本高校代表のオーストラリア遠征のメンバーに選ばれた。セレクションマッチがあった。徳島で呼んでもらったのは私1人。その時初めて1人で本州に渡った。合宿にいったら全国優勝を目指すそうそうたる連中ばかり。圧倒されそうになったけどオーストラリア行きのチケットが欲しくて必死になった。その甲斐があって「お前連れて行ってくれるぞ」と高校時代のラグビーの先生にいわれた時が、17年の人生の中で1番嬉しかった瞬間だと思う。
 この遠征で素晴らしいコーチと出会った。それが山口良治先生だった。何人か先生方はいたけど、私の胸にささったのは山口先生だった。「お前らは日本の代表だぞ。」試合前ロッカールームに集まり、「みんな待っているぞ。お前等が勝ったって知らせを。お前たちのお父さん、お母さん、学校の先生も協会の人達もみんな待っているぞ。」と激を飛ばされ、泣きながらグランドに出た。全部で8試合、中には80何点取られボロ負けした試合もあった。試合が終わってロッカールームで呆然としてた。そこへ入ってきた山口先生に「同じ高校生だろ、こんな負け方して悔しくないのか。」と怒鳴られ、また、ぼろぼろ泣いた。遠征最後の夜、食事会の後、ホームステイ先の人が迎えに来てくれるまでの間、皆で「楽しかったな」と住所の交換等していた。そのとき山口先生がやって来て「林よ。外人に通用してたのはお前だけやぞ。これから5年後、10年後、おれの後を継いでくれよ。学生時代にひとつのことやるのは素晴らしいことだよ。」と言ってくれた。私は嬉しくて、山口先生の胸に抱きついて泣いた。大学でもラグビーを続けよう、そしてできることなら、もう一度全日本になりたいと思った。これがラグビーとの本格的な出逢いであったように思う。
3.お前は倒れるまで走れるか
 遠征前の強化合宿で岡先生にも出会った。荷物を担いで合宿に行ったら、雑誌で知っていた全日本監督の岡先生がいた。先生の顔を見た時、私の体に電気が走った。あっ岡先生だと震えた。「林君同志社大学を受けてみないか」と言われ、進学することになった。
大学時代の思い出は色々あるけど、そんな中で忘れられない出来事があった。19歳の時、若手の全日本メンバーに選ばれ、ニュージーランドに遠征した。その日はニュージーランドの南島の代表と試合をした。オールブラックスメンバーが何人も入っている強い選抜チームに対し、その日の我々は、本当に激しい試合をした。激しいタックルを繰り返した。最後まで食らいついたけど、僅差で敗れた。しかし試合が終わった後で、私の胸には、今日は皆必死にやったぞと、熱い思いがあった。出来事は試合後のアフターファンクションでおこった。大活躍したフランカーの坂本さんが席上で倒れてしまった。彼は試合の中で、走って走って走って、疲れ果てて眠るように倒れてしまった。ゆすってもたたいても目を覚まさない。背中に背負ってホテルに連れ帰り、寝かせようと部屋の前までいった。鍵を開けようとしていると、仰向けに寝かした坂本さんが寝返りを打って、うつぶせになった。すると彼は右手を持ち上げて、誰かとバインドして突っ込んでいくような格好になり「フォワード頑張れ、フォワード頑張れ」とつぶやいた。もう私は涙が出て仕方がなかった。この人は夢の中でまだ戦っているな。
4.練習せいよ
 そんなことがあってから、自分に対し、お前は倒れるまで走れるのか、そういう思いを心の片隅に持ちながらラグビーをやって来た。試合は80分だけど、やはり瞬間瞬間だと思う。走って、走って、ノーサイドの笛が鳴ったらグランドにばったりと倒れる。そんな試合をしてみたかった。しかし、実際には倒れたことはない。
 人間には、生理的限界と心理的限界がある。生理的限界とは肉体的な限界の事で、心理的限界は生理的限界の60%位で来る。試合の中でも生理的限界まではいけないし、100%出したら死ぬ。必死になってやっているつもりでも、もう走れないと心理的限界の制御がかかる。試合に臨んだら、後は精神力の勝負である。心理的限界をどこまで上げていけるのか。100の力の大きなチームに勝つのは難しい。しかしこちらも練習することにより100の力を伸ばしていける。2〜3割の練習でうまくなれるわけがない。試合と同じ意識で、同じ集中力、同じ激しさでやらないと伸びない。心理的限界に挑戦することにより力は伸びるのだ。学生時代、岡先生から教わった話だが、何もラグビーだけではない。

5.同志社大学での厳しい練習
 当時の同志社は学生選手権優勝を目指し、弱小チームから入部した私には練習はきつかった。先輩達のプレーもレベルが全然違った。寮生活、1年は雑用もあるし、しぼられたり。体重が2ヶ月で15kg位減った。夏合宿ではスクラムを毎日何百本も組んだ。OBに鍛えられ、なんでこんな事させられるんやと悔しくて、スクラムがホイールしたとき、おもわず足を引掛けようと思った。スクラムに巻き込んで、スパイクでその人の顔を踏みたかった。長い練習が終わり部屋に帰ると、4年の先輩に「1年坊にはかわいそうやったな」言われた。不意をつかれて涙が出た。ふとんをかぶって泣いた。
 そうやって大学選手権を目指した。ベスト4に入ったら、秩父宮でラグビーが出来る。この試合に勝ちたくて1年間練習してきた。俺は今日このグランドで倒れてもいいと思った。涙ぐんでグランドに飛び出た。でもなかなか勝てなかった。1年の時、2年の時、いずれも明治大学に負けた。OBが集まってくれ、残念会をやってくれた。「おまえら1年間頑張ったじゃないか。ビールを飲めや。精一杯やっただろう。」そう言われ、飲みたくないビールを飲んで酔っ払った。出て行く4年の人が「俺達、勝てなかった。でもおまえら、来年こそ勝ってくれ。」「来年こそ勝ちますよ。」熱い涙の夜があった。そんな体験をしながら3年の時、学生選手権を取った。これも素晴らしい思い出だ。
6.神戸製鋼は草ラグビーみたいなチーム
 大学を卒業し、神戸製鋼に入社した。今でこそ神戸製鋼は強くなった。でも私が入った21年前は、関西でそこそこ、日本一には遠かった。練習は6時半からナイターだった。今は素晴しい芝生のグランドとクラブハウスが出来たけど、当時は土のグランドで石もころがっていた。グランドの北東の隅に、プレハブ小屋があり、そこで着替え、練習した。部員は30数名いたが、練習には15人集まらないこともしばしばあった。「今日は忙しい」「足が痛い、走れない」と逃げていく。当時よく話したのは「仕事が終わったら、皆でグランドに行こう。皆で一緒に練習しよう。練習後、本当に忙しかったら仕事に戻ろう。」まるで草ラグビーみたいな意識。大学の良いプレーヤーが何人か入ってきて、そこそこは強い。だから弱いチームには大勝するけど、本当に強いチームには勝てない。簡単にボールを落としたり、簡単にタックルを外されたりする。
7.指一本でタックル
 高校3年の遠征前強化合宿での出来事。その強化合宿に英国留学から帰国した全日本の俊足BKが参加してくれた。当時の日本のラグビー界で一番輝いていた人だった。その日我々は大学生チームと強化試合をした。相手の大学生チームにその彼が出てくれた。試合の中で彼がボールを持って走ってきた。タックルに行ったがステップを踏まれて、抜かれたと思った。思ったでもその瞬間、私は振り向いて、彼に向かって飛んだ。すると彼が跳ね上げた右足のスパイクのかかとが、右手のひらにぱんと当たった。私は彼のスパイクのかかとをつかみ、彼を引きずり倒した。どんなに嬉しかったか。抜かれたと思っても飛びついたら、指1本位かかるかもしれない。指が1本かかれば、スピードが落ちる。スピードが落ちたら、みんなでフォローしてそのプレーは、どっかで止められる。しかし当時の神戸製鋼はこの指の1本がかけられないチームだった。魂が入ってないと思った。
8.目標は日本一
 当時は新日鉄釜石の全盛時代で、1年目の社会人大会では釜石にボロ負けをした。2年目を迎えるにあたってミーティングがあり、席上で先輩達に質問をした。「みなさん、なんで神戸製鋼でラグビーやっているんですか。」先輩達は驚いてしばらく考えた。「そうだな。1回位トヨタに勝ちたいな。」トヨタは関西リーグでいつも優勝していた。毎年トヨタに挑むが1度も勝てなかった。「1回位トヨタに勝ちたいな」と言うのはわかるような気はしたが、それを聞いた時、不思議なくらい怒りがこみ上げてきた。たしかにトヨタは強い。でも本当に強いのはトヨタじゃない。その前の年ボロ負けをしたのも、日本一になったのも、連覇してるのも新日鉄釜石なのだ。「トヨタじゃないでしょ。関西リーグじゃないでしょ。俺達は日本一になりたいんじゃないんですか。日本一になりたくて、ここに来たんですよ。だから神戸製鋼でラグビーやってるんですよ。日本一になりたいんですよ。」私の叫びを皆真剣に聞いてくれた。皆が「そうか。じゃあ日本一を目指そう。」と言ってくれた。「本当に勝とうと思ったら、俺たちの練習で勝てるか。俺たちの練習は、練習のための練習ではなかったか。本当に勝とうと思ったら、どんなことやったらいいんや。」自然とミーティングが始まり、そこから徐々に強くなって行った。優勝するまで7年かかった。私も2年間キャプテンをやらせてもらった。しかし残念ながらその時は勝てなかった。
9.みんなの信頼失う
 第1回ワールドカップが始まった年だった。優勝を目指し、理想のチームを目指して、チームの改革をした。監督制を廃止し、キャプテンを中心にリーダーを置き、チームの運営にのぞんだ。だからキャプテンはグランドの全権を持っていた。日本代表の試合が続き、キャプテンを掛け持ちした。激しい試合が続き、膝に水がたまり、水を抜かないと走れなくなってしまった。日本代表のスケジュールも終わりチームに合流した。全国大会前、皆に厳しいフィットネスメニューを課した。皆必死に走ってくれたが、私自身が走れなかった。連戦の疲れで体調を崩し、膝に水がたまりタイム内に走れない。ミーティングでも色々な意見が出てきた。最初は良かったが、だんだん自分自身が批判されているような気がして、皆の意見を受容できなくなった。「こんなに頑張ってるのに何でわかってくれないんだ」そう思うこともありリーダー達とミーティングでやりあった。それでも皆精一杯やってくれた。だから今年こそ優勝できると信じていた。しかし1回戦1点差で負けた。ラグビーのない正月、皆が寂しい寂しいと言う。「こんな事もある。これも思い出になるじゃないか」と言った時「こんな思い出なんかいらないですよ」と言われた。私の夢は終わったと思った。精一杯やったけど勝てなかった。皆の信頼を失ってしまった、皆の気持ちも信じられない、もうラグビーやめよう、田舎に帰ろう、半ばその気になっていた。
10.お前は失礼と思わないか
 慰留されチームに残ったが、半ばラグビーに冷めていた。相変わらず、膝が悪い。4本ある膝の靭帯の3本までがいかれてしまってた。全日本からも外された。シーズンに入ったが、試合をすると水がたまる。2週間休んでまた試合に出た。また水がたまる。また休む。また試合をする。また水がたまる。そんな事を3回繰り返した。そんな時、当時のラグビー部長に呼ばれた。「林君、このままラグビーをやめてもいいのか。君、それは失礼だろう。ラグビーを教えてくれた中学の先生、高校の先生、同志社大学の岡先生に対して、お前は失礼だとは思わないのか。」部長の言葉は胸に突き刺さった。今の俺にはラグビーが大事だ。出来る限りのことをやろうと決心した。膝のリハビリに取り組み、筋肉をつけた。今までの3倍の練習をやった。酒もやめた。飯も5分にした。本気で取り組み、膝に筋肉が盛り上がり体がしぼれた。チームに合流できたのは社会人大会の1週間前。この年、全国大会で初優勝できた。前の年1点差で敗れた東芝を破って優勝を決めた。ノーサイドの笛が鳴り響いた。仲間と抱き合った。表彰式で平尾キャプテンが「林さん、表彰状を貰って来てよ。」「これをもらえるのは林さんしかないよ。皆林さんに行ってもらうぞ。」と声をかけてくれた。ぼろぼろと泣きながら賞状を受け取った。それから7年連覇が続いた。
11.再び日本一
 チームが強くなり、芝のグランドが出来た。素晴らしいクラブハウスも出来た。でも神戸製鋼の8連覇はなかった。みんなの心の片隅に簡単に勝てるのではないか、そんな思いがちょっとでも芽生えたのではなかったか。優勝したサントリーのロッカールームには、「7連覇をしたあの神戸製鋼に勝った」と歓喜が溢れていた。震災の年に連覇が途絶えたわけだが、それは言い訳にはならない。なぜなら勝てるメンバーがいて、勝てる力があったと思うからだ。この年を最後に私は現役を退いた。
それから神戸製鋼は勝てない。無残に負け続けて5年目のシーズン。全国大会の3週間前、V1を取った時のラグビー部長に誘われ、現役メンバーとV1を取ったときのメンバーでクラブハウスで焼肉をした。その日集まったメンバーの中では私が1番年上で、この話を私がしないといけないと思っていた。私はその日グランドに着いて、まず北東の隅っこにあったプレハブ小屋、我々が着替えていた小屋を見に行った。「今日俺はな、このグランドに来てすぐにこのクラブハウスには入って来なかった。北東の隅にあったプレハブ小屋を見に行った。今はいいよな。こんな素晴らしいクラブハウスがある。緑の芝のグランドもある。でも俺たちの頃にはなかった。土のグランド、石ころもころがってた。そして実を言うと俺が入った17年前、練習に15人が集まって来なかった。でもそんな中で、俺たちは日本一を目指したぞ。勝ちかったよ。負けたら悔しかった。このチームを愛したぞ。」皆真剣に聞いてくれた。全国大会に入って神戸製鋼は見違えた。震災から5年目、優勝した時、キャプテンの増保がその前の年のキャプテン小村に表彰状の授与を譲った。ぼろぼろ泣きながら表彰状を受け取る小村を見て、私も初優勝のことを思い出した。
12.人間が感動を失ったら、物質になる
 ラグビーを通じて得たものは感動だ。生きている証があった。ある哲学者は、「人間といえども感動を失ったら物質になる」と言った。知識を伝える事はコンピュータでも出来る。しかし本当の教育とは、人と人が出逢って、ぶつかりあう中で伝えられる、面授されるものだと思う。人は人との出逢いにより、気付き、学び、成長していくものだと思う。
 今ラグビー寺子屋を立ち上げようと思っている。レベルに合った実技指導をし、命懸けでやったラグビー体験を語ってあげようと思う。ディスカッションやワークショップを通じ、何よりも自分の力、自分にある可能性に気付かせてあげたい。感動を伝え、成長するひとつのきっかけになれたらと、そんな事を考えている。

 林 敏之のホームページは、http://www.t-hayashi.jp/です。
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